とっくに狂ってる

ももいろクローバーZを追いかけ、匿名性に寄りかかりながらたまに書く。

ジャニーズにだまされるな!本物の音楽とは?

 

茂木健一郎氏が、SMAPの音楽を引き合いに出して「ジャニーズに騙されるな」「彼らの芸術は偽物である」とつぶやき、本物の芸術について語って燃え盛っている。

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など、他にも何件かの投稿が続いている。

 

彼らのことを批判しやすい時期の投稿であることや、その言葉選びが扇情的であることも含めて大変議論を呼ぶ批評であり、人々の愛する芸術やコンテンツの魅力を再考させ議論を活発にする問題提起として良い着火剤になっている。私もまんまと記事を書いているわけだ。

今回の茂木氏の批評はジャニーズに向けて書かれているが、批評の内容はジャニーズだけではなく、アイドル音楽にも同じことが言えるものとなっている。

彼の一連の投稿を読んで、多くの人が直感的に「ちょっ待てよ」と思ったに違いない(アイドル好きの私はそう信じたい)が、茂木氏のように実際にアイドル音楽を、「低俗で偽物だ」と感じる、あるいは考える受け手がいることも私たちは目の当たりにしたわけだ。

私は彼らに対して、自身の推しカルチャーの尊厳を守り、「私の推しを偽物と決めつけるな」と言い返すことができるだろうか。またその根拠を持っているのだろうか。私は茂木氏の一連の投稿への反論という形で、アイドルがどのような魅力で人を惹きつけている「ほんもの」なのか、またそれを低質で偽物であると決めつけることがいかに不適切であるかを主張してみたい。

 

SMAP世界に一つだけの花は偽物?

茂木氏曰く『世界に一つだけの花』は槇原敬之の、『夜空ノムコウ』はスガシカオの音楽としてのみ価値が高いのであり、SMAPが歌ったとしてもそれは偽物なのだという。

同じ楽曲を披露するのにも、演者によって演奏の味やレベルが変わるのは当たり前といえばその通りだが「曲は同じだが歌い手が異なる」ことは今回のテーマを考えるのによい例だ。『世界に一つだけの花』を例に考えてみよう。

 

茂木氏は『世界に一つだけの花』について「あれは槇原敬之の楽曲であり、彼の生き方、人間性があっての歌の歌詞やメロディが生きてくる」と述べている。

これは「作詞曲者の経験や内面が感じ取れる、また表現されていることがより高い芸術性や感動を生む」ということだろう。それでは、作曲者自身の演奏こそがその音楽のベストアクトなのだろうか。

 

自分で作った曲を歌う音楽だけが素晴らしいのか

アイドル好きをやっていても「彼らは音楽を自分で作っていない、彼らの歌は自分達の歌ではない」という評価や「自分で作った音楽を演奏しているアーティストの方が優れている」という価値観をぶつけられることがあるが、自分で作っている音楽が最も優れているとどうして言い切れるのだろう。自分で作った曲を演奏することはその音楽の魅力を引き出す方法の一つにはなるが、そうでないからと言ってその音楽やアーティストを見下す根拠にはならないはずだ。

たとえば、世界一のピアニストの演奏するショパンよりも、日本の音大生が演奏する自作のピアノソナタの方が必ずしも感動を与えるのだろうか。

人気ロックバンドのGLAYはボーカルのTERUではなくギターのTAKUROが多くの曲を書いているが、『Winter again』はTAKUROが歌った方が良い曲になるのだろうか。

この二つの例をとってみて、誰もこれらを「そう、その通りだよ」と断言できないはずだ。「あの人は自分で作った曲を演奏しているから、いかなる場合もそうでない演奏より素晴らしい」ということにはならないのだ。

 

当然この例を見て「ショパンGLAYSMAPは違う」と言いたい人がいることも当然だろう。

実力あるピアニストがショパンを弾くのであれば、彼はショパンの表現を深く理解し、ショパンの感性や世界観が甦るような演奏を私たちに聴かせてくれるだろう。それを超える体験を、大学生が演奏するオリジナルのソナタが与えることは大変難しい。SMAPの歌とはミュージシャンとしての能力が違う、と反論こともできる。

しかしその筋で『世界に一つだけの花』を批判するのであれば、それは彼らの歌唱技術や表現力が槇原敬之の曲を歌うに足らない、という批判であり「槇原敬之の生き方や人間性で歌われないとこの曲の良さが生きない」という批判は核心をついたものではない。

GLAYについてはどうだろう。TAKUROはTERUの歌唱力に惚れ込み、TERUが歌ってこそ完成するGLAYの名曲達を生み出し続けている。そこには「TAKUROの書いた歌なんだから自分で歌った方がいいのに」などという様子のおかしなアドバイスが入り込む余地はない。

では『Winter again』は良くて『世界に一つだけの花』が許されないのだとすれば、それは先程と同様に歌い手の歌唱力が問題であるとするか、もしくは「TAKUROは TERUの声という楽器にあてて曲を書いている」ということに違いがあるということだ。

TAKUROGLAYの楽曲がTERUというボーカルの声で演奏されることを当然想定して曲を書いている。そしてTERUという楽器はその表現力でそれに応えていく。こうして生まれた音楽はGLAYの名曲として人の心を打つのだ。

しかし、それならば同様に『世界に一つだけの花』は槇原敬之SMAPに「楽曲提供」した音楽だ。もしあの曲の詩やメロディがSMAPの歌唱に適していない、と批判するのであればそれはSMAPではなく、彼らに曲をあてた作曲者の槇原敬之への批判であるべきではないだろうか。

茂木氏のSMAP世界に一つだけの花への批判は、こうして紐解いてみると「歌唱力の高い人の音楽が好き、そうでないものは楽しめない」というだけの話に着地しないだろうか。

そうでないのであれば「人間性が好きな槇原敬之の歌は好きで、SMAPのことは嫌いだから歌も響かない」というそもそもの好感度ありきの、批評とは呼べないただのおじさんの好みの話になる。せめて前者の技術や表現力への批判に対して、という形で話を進めよう。

 

アーティストは歌がうまいことが何より重要なのか

上の例を踏まえて考えると、SMAPの音楽への批判として的を得ている(可能性がある)のは演奏技術でしかない。

しかし、それすらも音楽の魅力を構成するたった一つの要素でしかない、ということに「音楽好きな人」なにより茂木健一郎氏は気が付いているはずだ。

その音楽を、歌詞を、メロディを生かす要素に、アーティストの「人間性や生き方」が欠かせないのだと、茂木氏自身が語っているではないか。

茂木氏のこの考え方には、私もまっすぐに頷き賛同している。

一つの歌を聴き感動をする過程でも、そこには曲そのものの魅力、歌い手の技術、表現力、人間性、さらには聞き手の知識や心情といった要素や環境が相互に、または無関係に作用する。

 

音源では何とも思っていなかったロックナンバーをドライブしながら聴いたら心が躍って仕方なかったり、聞き流していたラブソングが失恋後の自分の胸を締め付けるようになったり、贔屓にしているアーティストの解散ライブで歌われたデビュー曲を聴いて曲の雰囲気に合わない涙が流れたりするわけだ。

SMAPやジャニーズアイドルなどのアイドルが、技術面でより秀でたミュージシャン達よりも時に魅力的な演奏をし、多くの人を感動させるのは、楽曲制作を分離発注のプロが担っているというだけでなく、彼らアイドルが自分たちの音楽をより魅力的にする演奏技術以外の要素を持っているからだ。それは断じてオーディエンスがだまされているからではない。

 

アイドル音楽が与える感動は本物か

音楽が与える感動というのはアーティストの生き方や人間性、その他の環境、時に聴き手の環境や心情などの「周辺的な要因」にも大きく依存する。

では、アイドル音楽は演奏技術以外に何を以って感動を与えているのか。その手法を考えた時、果たしてアイドル音楽は茂木氏の言う通り「にせもの」なのだろうか。

これを一言で「これがアイドル音楽の魅力だ」と言い切ることはとても難しいが、今回は敢えてジャニーズほか、アイドルのファンがその音楽を聴いて感動する要素として大きいもの、そして茂木氏をはじめアイドル音楽のアンチである方が引っかかるであろう要素を挙げてみたい。

 

それは「魅力的な人が歌っていること」だ。

 

アイドルは容姿をはじめ、振り付けや表情といった周辺的な表現要素、延いてはステージの下での立ち振る舞いやキャラクターを全て魅力的にすることで、自分達の音楽を「魅力的な人が歌っている魅力的な音楽」に作り上げていく。

私はこれこそがアイドルの本質のひとつであると思っているし、アイドルの持つこれらの周辺的な魅力要素を「作り物の虚構」だと考える人が、彼らの音楽を「にせもの」と揶揄するのだろう。

しかし、音楽は表現そのものだけでなく環境や知識、受け手の心境などの周辺的な要素が感動に作用することを認めるのであれば、アイドル達が作る「好きな人/魅力的な人による音楽」を否定することはできないはずだ。それが仮に意図的に作られたものであったとしても、だ。 

今日は鳩に糞を落とされて気分が乗らないのでみんなのテンションを上げるような歌は歌いません、というロックバンドのステージは本物だろうか。

恋愛のバラードばかり歌ってきたけど本当はパンクロックが好きです、という女性アーティストの曲は真意ではない、として共振できなくなるのだろうか。

曲の世界観をより深く理解してもらうためにライブ会場のステージセットにこだわる音楽家は音での表現から逃げた三流アーティストなのだろうか。

 

先程のたとえと同様、これらについてもそうだと言える人はいないはずだ。そして、これらは全て彼らアイドルが自分のステージで行なっている音楽を魅力的にする周辺的な要素に関連する。彼らアイドルは自分達の素の人間性や思想を差し置いてアイドルの構成要素の一つにその身を投じているのだ。

表現と心情や人間性の一致は、技術と同様に表現を魅力的にするが、決して芸術の必須要素ではないと私は考える(何よりそんなものを証明する術やルールがないし、表現の裏を取ろうとする行為が音楽鑑賞の教養とは思えない)。

しかしながら、自身の心情に関係なく表現者としてより適した振る舞いをし続ける芸能への献身は、自分の心情だけを表現するストイックな芸術と比べても何ら蔑まれるものではない。

それを一面的に「嘘で客を騙している」と切り捨てることを音楽鑑賞に教養がある、と言えるのだろうか。

 

一流アイドルと呼ばれる人達は、自分達の音楽が、演奏が聴き手の心を動かすためのあらゆる演出を、そのための献身を惜しまない。

彼らが「トイレに行かない生き物である」こともそのファンタジーの一つであるし、彼らの恋愛事情が必要以上にスキャンダラスに取沙汰されてしまうことは彼らの献身が生み出した影の部分だろう。

アイドルとは彼らがそうして作り上げた偶像だ。その偶像で人の心を動かすために、彼らは血や汗や涙を流している。そしてそれすらも余すことなくエンタメにする。

そして「生き方が格好いいこの人の音楽が好き」「困難を乗り越えて奏でるあの人の演奏が好き」といった「演者の魅力」が、作品の魅力をより良くするわけだ。

そもそも音楽の魅力を伝えるために音楽以外を演出することそのものを邪道だという意見もあるだろう。「SNS映え」が話題で集客しているような飲食店に本当に美味しい料理が作れるわけがない、という批判感覚は私にも理解できる。

しかし、音楽にそれだけを求めるというのなら、その人は家でbeatsのヘッドフォンをつけてシャッフル再生で音源だけを聴いていればいいのだ。生で聴く音楽の良さも、会場に大好きな音楽が流れる雰囲気も、それをより楽しませるために凝らされたステージ演出も、今の自分の心情に合った音楽すらも必要ない。音楽そのものだけに価値があるのだから。

でも多くの音楽やアーティストはそうではない。自分達の楽曲や演奏を少しでも楽しんでもらうための努力を惜しまないし観客は楽曲理解や没頭によってそれに応えるのだ。それを人間全部を使って行っているアイドルを、誰が「にせもの」と断じることができるだろう。

 

もちろん、現実的にアイドルは良い音楽を届ける事だけを目的に活動していない場合も多い。音楽をお金の取れるコンテンツの一つとしてしか考えていないアイドルやそのプロデューサーも業界には多いだろう。

音楽そのものを純粋に楽しみ愛する人にとって、そういったアイドル音楽が「音楽だけをやりたい人の音楽」と並べて語られることに不快さを覚えることもあるはずだ。私にもある。

しかし、SMAPや嵐をはじめとするジャニーズやほかのアイドルの中には「自分達の歌や演奏を聴いてくれる人の心を揺らしたい、笑顔にしたい、アイドルという最高のエンタメを届けたい」という目的やプロ意識の下に、多くのミュージシャンがその作品制作や演奏活動に使う何倍もの時間や労力、時に人生そのものを捧げている「ほんもの」がいる。

私はアイドルを取り巻く業界の薄暗い部分や今回のジャニーズ事務所の事件を不快に思うことがあっても、音楽だけを突き詰めたミュージシャン達の演奏に感動することはあっても、生身の人間部分すらをも芸能に捧げている彼らをを大きく「にせもの」とくくるようなことはしたくないし、してほしくないわけだ。

 

まあ、その、あれだ、ももクロを聴いてみてくれよ。

https://music.apple.com/jp/album/yoyogi-mugendai-kinenbi-live-at-yoyogi-national-stadium/1699372584