とっくに狂ってる

ももいろクローバーZを追いかけ、匿名性に寄りかかりながらたまに書く。

推しアイドルの結婚だ、歯をくいしばれ

 

虚しくなるほど広いこの星でたった4人組の推しアイドルグループ

ももいろクローバーZ高城れにさんが結婚した。

 

最高におめでたい。

結婚後もアイドルとしての活動を続けてくれるのだそうだ。ありがたい限りだ。

いつかは良いお相手を見つけて結婚するかもしれないということは覚悟していたことだけれど、それを深夜の都内某所での隠し撮りなどではなく、生放送で本人の口から、という最も良い形で発表してもらえた。素晴らしい。こんなにファンを思いやってくれる結婚報告があるだろうか。

誰よりも優しく愛の深いアイドル高城れにさん。

どうか、どうかあなた個人としても幸せになってほしい。

私たちの少し欲を言えば「未婚でもアイドル、結婚してもアイドル」を突き進んでほしい。

そして宇佐見選手。私たちファンが支えることのできないアイドルでない時間の彼女に、どうかゆっくりと流れる優しく温かい家庭を築いてほしい。

ご結婚本当におめでとうございます。

それでは皆様、お二人の幸せな旅路の始まりに、乾杯。

 

 

と、ここまでが最高のアイドルももいろクローバーZでトップオブザ最高のメンバー高城れにさんを思った心の底からの祝福だ。

これらの言葉には一つも嘘はないが、彼女たちに知られなくてもいい私達推しを持つ人間の侘び寂び妬み嫉み屁理屈を取り除いている。

 

私は実のところ今回の高城れにさんの結婚発表を受けて「この衝撃が最大あと3回ある(しかも私にとっては最推しの百田夏菜子さんを残している)」ということにビビり散らかしている。それだけ、自分が思っていた以上に刺激の強い出来事だったのだ。

 

備えなければならない。わかっていたつもりになって目を逸らしていた強烈なインパクトに。

何が嬉しくて、何が悲しくて、私たちオタクには何ができて、何ができないのか。

 

すでに灰になった紫色の同志達も沢山いて、こんな文章はとても間に合ってはいないのだが、みんなの思考を整理する材料にもなればいい、と思い私の書き殴りをここにまとめておく。話が長い。オタクだから。

 

 

1.推しの結婚を100%喜べない私たちは醜いオタクなのか

 

 

推しアイドルの結婚という出来事があまりにも脳を揺らし混乱させるものだから、まずは整理したい。

私は主観と客観の境界線がぼやけた頭の中から高城れにさんが結婚して良かったこと、良くなかったことをざっくりと書き出してみた。

ももいろクローバーZ内における私の推しは百田夏菜子さんだが、世界内でいうと(?)高城れにさんは圧倒的に推しであるので以下彼女のことを「推し」と略称する

 

高城れにさんが結婚して良かったこと】

・推しが幸せそうにしている

・推しが自分達の私生活も充実させているということがわかり安心できる

・幸せの手段に恋愛を採用することが制限されやすいアイドルである推しが、最も制限の大きい結婚を成し遂げたことで他のメンバーやアイドル延いてはアイドル業界の価値観に石を投じてくれた(早口息継ぎなしネルシャツをジーパンにイン)

 

高城れにさんが結婚して嫌だったこと】

・今後のアイドル活動に制限が出る可能性がある

・みんなのアイドルではなく1人の男のものになってしまった気がして悔しい

・見ないようにしていた彼女達のプライベートが嫌でもちらつくようになってしまい同じスタンスで応援しづらい

 

ざっくりとこんなところだろう。全国1億人のアイドルオタクみんなに聞いても、これらと大きくは逸れたものはないはずだ。

なんと言っても「推しが幸せそうにしている」が最も大きく、強く、前提的で、残酷な要素だなぁ、と書き出したことで実感する。

 

そしてこうして書き出してみると、推しが結婚することで「ファンである私」が直接得られる恩恵というのは実は全くないか、もしくは極めて少なく、推しが結婚することで嫌なことは「私たちファンの都合」に極めて偏っている。

 

推しの結婚は「推しという人間」のファンにとっては一緒に喜ぶべきことなのだけれど、「コンテンツとしての推し」を楽しむファンにとっては不都合なことの方が多いのだ。

そしてこれはAさんは前者でBさんは後者だよね、というような簡単なものではない。

全ての推しを持つオタクの中には「人間としての推し」と「コンテンツとしての推し」が存在し、その要素が複雑な相関関係にある。

例えば「ステージで格好良く歌う百田夏菜子さんに惚れた」という男性がいたとして、聴者の魂を震わせるような歌唱は間違いなく百田夏菜子さんという人間の魅力だが、それは彼女がアイドルというコンテンツとして提供している魅力である。

将来もし彼が彼女と結ばれたとして(ここまで書いて一度意識を失う)、彼が生活の中で百田夏菜子の格好いい歌唱ステージを味わうことはできないだろう。

というように私たちは無自覚にコンテンツから推し本人を好きになり、推し本人をコンテンツとして楽しんでいる。

 

「ライブも楽しくないし曲もトークも好みじゃないしコンテンツとしては全く面白くないけど本人の人間性が好きなんですよね」

などというハマり方をするファンは存在しない。

逆に「この人は逮捕秒読みの外道なので人としては好きになれないけどライブが楽しいからファンクラブに入っている」というファンは存在するかもしれないが、おそらく彼らは対象のアイドルに「推し」などという言葉を使わないだろうし、対象のプライベートに興味など持たないはずだ。

 

私たちはあくまで自分が楽しめるコンテンツの中に「人間として推せる」子を見つけるし、逆にアイドル本人は「人間としての私」の中から「アイドルコンテンツとしての私」を売り出していくわけだ。

 

恋愛を中心にした推しのプライベートを極力見たくない、というファンの線引きも、これに照らし合わせればコンテンツとして公開されていない(されるべきではない)要素に対するある種の拒否反応からくるものだと考えると説明がつく。

 

これらのことから私たちが改めて自覚しなければならないのは、私達はあくまで推しというコンテンツの消費者である、ということ。

そして、消費者としての私たちにとって推しの結婚はそもそもデメリットやリスクの方が大きいもの、ということだ。

その上で、それでも人間としても好きなあなたが幸せなら、私も嬉しいです、これでいいのだ。

 

「喜ばなければいけないこと」ではない。私達ファンは推しの家族でも友人でもないのだから。ファンとしては普通に不安や不快の感情を抱く要素の方が多いという人がいて当然なのだ。

それでも「人間として大好きな推し」に向けて私達は笑い、祝福の言葉を贈る。それがアイドルとファンの間にある“推し“という関係性の持つ歪みであり、同時に美しさではないだろうか。

 

 

2.私達は失恋をしたのか

 

 

3次元に生きる推しを「人間部分」「コンテンツ部分」に分類して考えたことで、私たちファンがおめでたい気持ちとは裏腹に感じてしまうネガティブな感情がごく自然に起こりうるものだと私は理解できた。

次は私たちファン側の好意について考えてみたいと思う。

 

推しの結婚が発生した時、私達ファンは世間から失恋した人として扱われがちだ。

 

普段オタ活のことを疑似恋愛と揶揄された時に私達は逆毛を立てて羽を広げ相手を威嚇し「そういうのじゃないんだよ」と否定をするが、今回の高城れにさんの結婚を経て、私はその考えを改めた部分がある。

私達ももクロのオタクは今回程度に個人差はあれど「失恋」をしたのかもしれない、という風に。

 

「みんなにとってのアイドルでいてほしい」という願望は本来、「たった一人の特別な関係である配偶者の存在」と矛盾しない。

ももいろクローバーZのファン、という括りをしてみても彼女達に対して所謂“ガチ恋“のスタンスをとっているファンは少ない。

ただ一方で私達は「アイドルが性的魅力を持つ」という側面を完全に排除することはできない。

ここで言う性的魅力とはエロやセクシーの類だけを指すのではなく、女性であれば「長い黒髪が綺麗だ」「歌声がかわいい」、男性であれば「腕の血管が素敵だ」「落ち着いた低い声が格好いい」といったその人が属する性別を踏まえて評価されやすい魅力全般を指す。

 

もちろんファンの中にはこれらが全く当てはまらない人もいるだろう。

人間性に惚れた」「頑張っている姿が格好いい」「生き様についていくと決めた」「親のような気持ち」だけでアイドルを推している人も宇宙には間違いなく存在する。

ただ、それでも私達はアイドルには異性のファンがつきやすいという前提を覆せたことがなく、オタクは恋愛対象と同一の性に推しを持ちやすい、という傾向を否定できない。

 

推しのことを、他の異性を見る時と同じ尺度で魅力的に感じその姿に見惚れているだけで、恋愛の要件(例えば実際にお近づきになりたいとか自分のことも好きになってほしいというような)を満たしていないから“ガチ恋“になっていないものの、それはもう恋愛の側面を持つのではないだろうか。

 

私達の推しへの好意は恋愛と同じ感情を含んでしまう。

ここで私は推しを持つオタク文化を愛するので誤解のないように言い直しておくが、

推しへの好意は疑似恋愛である、ではなく推しへの敬愛は恋愛を“包括する“のだと主張したい。

 

そうした時「推しの結婚」という出来事はやはりとんでもなく大きな衝撃だ。

今の日本の価値観で一般に「好きな人がする私以外との結婚」は「私の恋の終わり」と同義だ。

 

先に書いた通り、推しへの好意は恋愛感情を含む、ということを私達は無視できないと私は考える。その割合は人によって異なり、それを正確に自覚することも難しい。私の中の百田夏菜子さんへの恋愛感情は2%かもしれないし98%かもしれないし120%かもしれない。150%かもしれないな。

 

推しが結婚した時、何%かはわからないが私たちは無意識に部分的に持つ恋情に蓋をすることになる。そしてそれはまた部分的に失恋と同じ感情の起伏を生むと思うのだ。

 

推しに対して恋愛感情の一部を持っていることを自覚する。

そして、その日が来た時私たちは“部分的失恋“をする。

もし自分の中の不快感の割合が大きいと思ったその時は躊躇なく髪を切ったり酒を飲んだりポエムを書いたりしていいのだ、部分的には失恋なのだから。

 

 

3.推しが結婚する時に私ができること

 

ここまでで私は

推しという存在を人間部分とコンテンツ部分があること

推しへの好意には恋愛感情の一部が含まれること

を書いた。

そこから導き出される“推しの結婚に私たちができること“がみんなにもわかっただろう。

 

 

足を開け、丹田に力を込めろ、歯をくいしばれ。

 

 

土台無理なのだ。

推しは人間であり、私たちは生きるコンテンツを愛しているのだから。

私たちの応援には恋愛由来の好意(流行り)が含まれることを排除できないのだから。

 

特に結婚は祭囃子を奏でながら笑顔でやってくる。

悲しみづらく痛がりづらい華やかさがある。

ある意味でもっとも残酷かもしれない。

 

私たちはペットを飼いたがる娘に動物の寿命を言い聞かせるように、推しを愛する自身に言い聞かせるのだ。

推しが人間であるということを認めるのであれば、私たちは彼ら(彼女ら)が好きな時に恋愛し、好きな時に結婚し、好きな時に活動をやめるものだということを知っておかなければならないよ、と。

 

それでも最後まで「あなたという人間の人生をファンとして応援しています」と言えることが唯一、推しを持つ私たちの人生を美しくするのだと信じたい。

 

backnumberの沁みる季節がきた。