とっくに狂ってる

ももいろクローバーZを追いかけ、匿名性に寄りかかりながらたまに書く。

ジャニーズにだまされるな!本物の音楽とは?

 

茂木健一郎氏が、SMAPの音楽を引き合いに出して「ジャニーズに騙されるな」「彼らの芸術は偽物である」とつぶやき、本物の芸術について語って燃え盛っている。

x.com

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など、他にも何件かの投稿が続いている。

 

彼らのことを批判しやすい時期の投稿であることや、その言葉選びが扇情的であることも含めて大変議論を呼ぶ批評であり、人々の愛する芸術やコンテンツの魅力を再考させ議論を活発にする問題提起として良い着火剤になっている。私もまんまと記事を書いているわけだ。

今回の茂木氏の批評はジャニーズに向けて書かれているが、批評の内容はジャニーズだけではなく、アイドル音楽にも同じことが言えるものとなっている。

彼の一連の投稿を読んで、多くの人が直感的に「ちょっ待てよ」と思ったに違いない(アイドル好きの私はそう信じたい)が、茂木氏のように実際にアイドル音楽を、「低俗で偽物だ」と感じる、あるいは考える受け手がいることも私たちは目の当たりにしたわけだ。

私は彼らに対して、自身の推しカルチャーの尊厳を守り、「私の推しを偽物と決めつけるな」と言い返すことができるだろうか。またその根拠を持っているのだろうか。私は茂木氏の一連の投稿への反論という形で、アイドルがどのような魅力で人を惹きつけている「ほんもの」なのか、またそれを低質で偽物であると決めつけることがいかに不適切であるかを主張してみたい。

 

SMAP世界に一つだけの花は偽物?

茂木氏曰く『世界に一つだけの花』は槇原敬之の、『夜空ノムコウ』はスガシカオの音楽としてのみ価値が高いのであり、SMAPが歌ったとしてもそれは偽物なのだという。

同じ楽曲を披露するのにも、演者によって演奏の味やレベルが変わるのは当たり前といえばその通りだが「曲は同じだが歌い手が異なる」ことは今回のテーマを考えるのによい例だ。『世界に一つだけの花』を例に考えてみよう。

 

茂木氏は『世界に一つだけの花』について「あれは槇原敬之の楽曲であり、彼の生き方、人間性があっての歌の歌詞やメロディが生きてくる」と述べている。

これは「作詞曲者の経験や内面が感じ取れる、また表現されていることがより高い芸術性や感動を生む」ということだろう。それでは、作曲者自身の演奏こそがその音楽のベストアクトなのだろうか。

 

自分で作った曲を歌う音楽だけが素晴らしいのか

アイドル好きをやっていても「彼らは音楽を自分で作っていない、彼らの歌は自分達の歌ではない」という評価や「自分で作った音楽を演奏しているアーティストの方が優れている」という価値観をぶつけられることがあるが、自分で作っている音楽が最も優れているとどうして言い切れるのだろう。自分で作った曲を演奏することはその音楽の魅力を引き出す方法の一つにはなるが、そうでないからと言ってその音楽やアーティストを見下す根拠にはならないはずだ。

たとえば、世界一のピアニストの演奏するショパンよりも、日本の音大生が演奏する自作のピアノソナタの方が必ずしも感動を与えるのだろうか。

人気ロックバンドのGLAYはボーカルのTERUではなくギターのTAKUROが多くの曲を書いているが、『Winter again』はTAKUROが歌った方が良い曲になるのだろうか。

この二つの例をとってみて、誰もこれらを「そう、その通りだよ」と断言できないはずだ。「あの人は自分で作った曲を演奏しているから、いかなる場合もそうでない演奏より素晴らしい」ということにはならないのだ。

 

当然この例を見て「ショパンGLAYSMAPは違う」と言いたい人がいることも当然だろう。

実力あるピアニストがショパンを弾くのであれば、彼はショパンの表現を深く理解し、ショパンの感性や世界観が甦るような演奏を私たちに聴かせてくれるだろう。それを超える体験を、大学生が演奏するオリジナルのソナタが与えることは大変難しい。SMAPの歌とはミュージシャンとしての能力が違う、と反論こともできる。

しかしその筋で『世界に一つだけの花』を批判するのであれば、それは彼らの歌唱技術や表現力が槇原敬之の曲を歌うに足らない、という批判であり「槇原敬之の生き方や人間性で歌われないとこの曲の良さが生きない」という批判は核心をついたものではない。

GLAYについてはどうだろう。TAKUROはTERUの歌唱力に惚れ込み、TERUが歌ってこそ完成するGLAYの名曲達を生み出し続けている。そこには「TAKUROの書いた歌なんだから自分で歌った方がいいのに」などという様子のおかしなアドバイスが入り込む余地はない。

では『Winter again』は良くて『世界に一つだけの花』が許されないのだとすれば、それは先程と同様に歌い手の歌唱力が問題であるとするか、もしくは「TAKUROは TERUの声という楽器にあてて曲を書いている」ということに違いがあるということだ。

TAKUROGLAYの楽曲がTERUというボーカルの声で演奏されることを当然想定して曲を書いている。そしてTERUという楽器はその表現力でそれに応えていく。こうして生まれた音楽はGLAYの名曲として人の心を打つのだ。

しかし、それならば同様に『世界に一つだけの花』は槇原敬之SMAPに「楽曲提供」した音楽だ。もしあの曲の詩やメロディがSMAPの歌唱に適していない、と批判するのであればそれはSMAPではなく、彼らに曲をあてた作曲者の槇原敬之への批判であるべきではないだろうか。

茂木氏のSMAP世界に一つだけの花への批判は、こうして紐解いてみると「歌唱力の高い人の音楽が好き、そうでないものは楽しめない」というだけの話に着地しないだろうか。

そうでないのであれば「人間性が好きな槇原敬之の歌は好きで、SMAPのことは嫌いだから歌も響かない」というそもそもの好感度ありきの、批評とは呼べないただのおじさんの好みの話になる。せめて前者の技術や表現力への批判に対して、という形で話を進めよう。

 

アーティストは歌がうまいことが何より重要なのか

上の例を踏まえて考えると、SMAPの音楽への批判として的を得ている(可能性がある)のは演奏技術でしかない。

しかし、それすらも音楽の魅力を構成するたった一つの要素でしかない、ということに「音楽好きな人」なにより茂木健一郎氏は気が付いているはずだ。

その音楽を、歌詞を、メロディを生かす要素に、アーティストの「人間性や生き方」が欠かせないのだと、茂木氏自身が語っているではないか。

茂木氏のこの考え方には、私もまっすぐに頷き賛同している。

一つの歌を聴き感動をする過程でも、そこには曲そのものの魅力、歌い手の技術、表現力、人間性、さらには聞き手の知識や心情といった要素や環境が相互に、または無関係に作用する。

 

音源では何とも思っていなかったロックナンバーをドライブしながら聴いたら心が躍って仕方なかったり、聞き流していたラブソングが失恋後の自分の胸を締め付けるようになったり、贔屓にしているアーティストの解散ライブで歌われたデビュー曲を聴いて曲の雰囲気に合わない涙が流れたりするわけだ。

SMAPやジャニーズアイドルなどのアイドルが、技術面でより秀でたミュージシャン達よりも時に魅力的な演奏をし、多くの人を感動させるのは、楽曲制作を分離発注のプロが担っているというだけでなく、彼らアイドルが自分たちの音楽をより魅力的にする演奏技術以外の要素を持っているからだ。それは断じてオーディエンスがだまされているからではない。

 

アイドル音楽が与える感動は本物か

音楽が与える感動というのはアーティストの生き方や人間性、その他の環境、時に聴き手の環境や心情などの「周辺的な要因」にも大きく依存する。

では、アイドル音楽は演奏技術以外に何を以って感動を与えているのか。その手法を考えた時、果たしてアイドル音楽は茂木氏の言う通り「にせもの」なのだろうか。

これを一言で「これがアイドル音楽の魅力だ」と言い切ることはとても難しいが、今回は敢えてジャニーズほか、アイドルのファンがその音楽を聴いて感動する要素として大きいもの、そして茂木氏をはじめアイドル音楽のアンチである方が引っかかるであろう要素を挙げてみたい。

 

それは「魅力的な人が歌っていること」だ。

 

アイドルは容姿をはじめ、振り付けや表情といった周辺的な表現要素、延いてはステージの下での立ち振る舞いやキャラクターを全て魅力的にすることで、自分達の音楽を「魅力的な人が歌っている魅力的な音楽」に作り上げていく。

私はこれこそがアイドルの本質のひとつであると思っているし、アイドルの持つこれらの周辺的な魅力要素を「作り物の虚構」だと考える人が、彼らの音楽を「にせもの」と揶揄するのだろう。

しかし、音楽は表現そのものだけでなく環境や知識、受け手の心境などの周辺的な要素が感動に作用することを認めるのであれば、アイドル達が作る「好きな人/魅力的な人による音楽」を否定することはできないはずだ。それが仮に意図的に作られたものであったとしても、だ。 

今日は鳩に糞を落とされて気分が乗らないのでみんなのテンションを上げるような歌は歌いません、というロックバンドのステージは本物だろうか。

恋愛のバラードばかり歌ってきたけど本当はパンクロックが好きです、という女性アーティストの曲は真意ではない、として共振できなくなるのだろうか。

曲の世界観をより深く理解してもらうためにライブ会場のステージセットにこだわる音楽家は音での表現から逃げた三流アーティストなのだろうか。

 

先程のたとえと同様、これらについてもそうだと言える人はいないはずだ。そして、これらは全て彼らアイドルが自分のステージで行なっている音楽を魅力的にする周辺的な要素に関連する。彼らアイドルは自分達の素の人間性や思想を差し置いてアイドルの構成要素の一つにその身を投じているのだ。

表現と心情や人間性の一致は、技術と同様に表現を魅力的にするが、決して芸術の必須要素ではないと私は考える(何よりそんなものを証明する術やルールがないし、表現の裏を取ろうとする行為が音楽鑑賞の教養とは思えない)。

しかしながら、自身の心情に関係なく表現者としてより適した振る舞いをし続ける芸能への献身は、自分の心情だけを表現するストイックな芸術と比べても何ら蔑まれるものではない。

それを一面的に「嘘で客を騙している」と切り捨てることを音楽鑑賞に教養がある、と言えるのだろうか。

 

一流アイドルと呼ばれる人達は、自分達の音楽が、演奏が聴き手の心を動かすためのあらゆる演出を、そのための献身を惜しまない。

彼らが「トイレに行かない生き物である」こともそのファンタジーの一つであるし、彼らの恋愛事情が必要以上にスキャンダラスに取沙汰されてしまうことは彼らの献身が生み出した影の部分だろう。

アイドルとは彼らがそうして作り上げた偶像だ。その偶像で人の心を動かすために、彼らは血や汗や涙を流している。そしてそれすらも余すことなくエンタメにする。

そして「生き方が格好いいこの人の音楽が好き」「困難を乗り越えて奏でるあの人の演奏が好き」といった「演者の魅力」が、作品の魅力をより良くするわけだ。

そもそも音楽の魅力を伝えるために音楽以外を演出することそのものを邪道だという意見もあるだろう。「SNS映え」が話題で集客しているような飲食店に本当に美味しい料理が作れるわけがない、という批判感覚は私にも理解できる。

しかし、音楽にそれだけを求めるというのなら、その人は家でbeatsのヘッドフォンをつけてシャッフル再生で音源だけを聴いていればいいのだ。生で聴く音楽の良さも、会場に大好きな音楽が流れる雰囲気も、それをより楽しませるために凝らされたステージ演出も、今の自分の心情に合った音楽すらも必要ない。音楽そのものだけに価値があるのだから。

でも多くの音楽やアーティストはそうではない。自分達の楽曲や演奏を少しでも楽しんでもらうための努力を惜しまないし観客は楽曲理解や没頭によってそれに応えるのだ。それを人間全部を使って行っているアイドルを、誰が「にせもの」と断じることができるだろう。

 

もちろん、現実的にアイドルは良い音楽を届ける事だけを目的に活動していない場合も多い。音楽をお金の取れるコンテンツの一つとしてしか考えていないアイドルやそのプロデューサーも業界には多いだろう。

音楽そのものを純粋に楽しみ愛する人にとって、そういったアイドル音楽が「音楽だけをやりたい人の音楽」と並べて語られることに不快さを覚えることもあるはずだ。私にもある。

しかし、SMAPや嵐をはじめとするジャニーズやほかのアイドルの中には「自分達の歌や演奏を聴いてくれる人の心を揺らしたい、笑顔にしたい、アイドルという最高のエンタメを届けたい」という目的やプロ意識の下に、多くのミュージシャンがその作品制作や演奏活動に使う何倍もの時間や労力、時に人生そのものを捧げている「ほんもの」がいる。

私はアイドルを取り巻く業界の薄暗い部分や今回のジャニーズ事務所の事件を不快に思うことがあっても、音楽だけを突き詰めたミュージシャン達の演奏に感動することはあっても、生身の人間部分すらをも芸能に捧げている彼らをを大きく「にせもの」とくくるようなことはしたくないし、してほしくないわけだ。

 

まあ、その、あれだ、ももクロを聴いてみてくれよ。

https://music.apple.com/jp/album/yoyogi-mugendai-kinenbi-live-at-yoyogi-national-stadium/1699372584

 

 

 

 

 

 

 

 

推しアイドルの結婚だ、歯をくいしばれ

 

虚しくなるほど広いこの星でたった4人組の推しアイドルグループ

ももいろクローバーZ高城れにさんが結婚した。

 

最高におめでたい。

結婚後もアイドルとしての活動を続けてくれるのだそうだ。ありがたい限りだ。

いつかは良いお相手を見つけて結婚するかもしれないということは覚悟していたことだけれど、それを深夜の都内某所での隠し撮りなどではなく、生放送で本人の口から、という最も良い形で発表してもらえた。素晴らしい。こんなにファンを思いやってくれる結婚報告があるだろうか。

誰よりも優しく愛の深いアイドル高城れにさん。

どうか、どうかあなた個人としても幸せになってほしい。

私たちの少し欲を言えば「未婚でもアイドル、結婚してもアイドル」を突き進んでほしい。

そして宇佐見選手。私たちファンが支えることのできないアイドルでない時間の彼女に、どうかゆっくりと流れる優しく温かい家庭を築いてほしい。

ご結婚本当におめでとうございます。

それでは皆様、お二人の幸せな旅路の始まりに、乾杯。

 

 

と、ここまでが最高のアイドルももいろクローバーZでトップオブザ最高のメンバー高城れにさんを思った心の底からの祝福だ。

これらの言葉には一つも嘘はないが、彼女たちに知られなくてもいい私達推しを持つ人間の侘び寂び妬み嫉み屁理屈を取り除いている。

 

私は実のところ今回の高城れにさんの結婚発表を受けて「この衝撃が最大あと3回ある(しかも私にとっては最推しの百田夏菜子さんを残している)」ということにビビり散らかしている。それだけ、自分が思っていた以上に刺激の強い出来事だったのだ。

 

備えなければならない。わかっていたつもりになって目を逸らしていた強烈なインパクトに。

何が嬉しくて、何が悲しくて、私たちオタクには何ができて、何ができないのか。

 

すでに灰になった紫色の同志達も沢山いて、こんな文章はとても間に合ってはいないのだが、みんなの思考を整理する材料にもなればいい、と思い私の書き殴りをここにまとめておく。話が長い。オタクだから。

 

 

1.推しの結婚を100%喜べない私たちは醜いオタクなのか

 

 

推しアイドルの結婚という出来事があまりにも脳を揺らし混乱させるものだから、まずは整理したい。

私は主観と客観の境界線がぼやけた頭の中から高城れにさんが結婚して良かったこと、良くなかったことをざっくりと書き出してみた。

ももいろクローバーZ内における私の推しは百田夏菜子さんだが、世界内でいうと(?)高城れにさんは圧倒的に推しであるので以下彼女のことを「推し」と略称する

 

高城れにさんが結婚して良かったこと】

・推しが幸せそうにしている

・推しが自分達の私生活も充実させているということがわかり安心できる

・幸せの手段に恋愛を採用することが制限されやすいアイドルである推しが、最も制限の大きい結婚を成し遂げたことで他のメンバーやアイドル延いてはアイドル業界の価値観に石を投じてくれた(早口息継ぎなしネルシャツをジーパンにイン)

 

高城れにさんが結婚して嫌だったこと】

・今後のアイドル活動に制限が出る可能性がある

・みんなのアイドルではなく1人の男のものになってしまった気がして悔しい

・見ないようにしていた彼女達のプライベートが嫌でもちらつくようになってしまい同じスタンスで応援しづらい

 

ざっくりとこんなところだろう。全国1億人のアイドルオタクみんなに聞いても、これらと大きくは逸れたものはないはずだ。

なんと言っても「推しが幸せそうにしている」が最も大きく、強く、前提的で、残酷な要素だなぁ、と書き出したことで実感する。

 

そしてこうして書き出してみると、推しが結婚することで「ファンである私」が直接得られる恩恵というのは実は全くないか、もしくは極めて少なく、推しが結婚することで嫌なことは「私たちファンの都合」に極めて偏っている。

 

推しの結婚は「推しという人間」のファンにとっては一緒に喜ぶべきことなのだけれど、「コンテンツとしての推し」を楽しむファンにとっては不都合なことの方が多いのだ。

そしてこれはAさんは前者でBさんは後者だよね、というような簡単なものではない。

全ての推しを持つオタクの中には「人間としての推し」と「コンテンツとしての推し」が存在し、その要素が複雑な相関関係にある。

例えば「ステージで格好良く歌う百田夏菜子さんに惚れた」という男性がいたとして、聴者の魂を震わせるような歌唱は間違いなく百田夏菜子さんという人間の魅力だが、それは彼女がアイドルというコンテンツとして提供している魅力である。

将来もし彼が彼女と結ばれたとして(ここまで書いて一度意識を失う)、彼が生活の中で百田夏菜子の格好いい歌唱ステージを味わうことはできないだろう。

というように私たちは無自覚にコンテンツから推し本人を好きになり、推し本人をコンテンツとして楽しんでいる。

 

「ライブも楽しくないし曲もトークも好みじゃないしコンテンツとしては全く面白くないけど本人の人間性が好きなんですよね」

などというハマり方をするファンは存在しない。

逆に「この人は逮捕秒読みの外道なので人としては好きになれないけどライブが楽しいからファンクラブに入っている」というファンは存在するかもしれないが、おそらく彼らは対象のアイドルに「推し」などという言葉を使わないだろうし、対象のプライベートに興味など持たないはずだ。

 

私たちはあくまで自分が楽しめるコンテンツの中に「人間として推せる」子を見つけるし、逆にアイドル本人は「人間としての私」の中から「アイドルコンテンツとしての私」を売り出していくわけだ。

 

恋愛を中心にした推しのプライベートを極力見たくない、というファンの線引きも、これに照らし合わせればコンテンツとして公開されていない(されるべきではない)要素に対するある種の拒否反応からくるものだと考えると説明がつく。

 

これらのことから私たちが改めて自覚しなければならないのは、私達はあくまで推しというコンテンツの消費者である、ということ。

そして、消費者としての私たちにとって推しの結婚はそもそもデメリットやリスクの方が大きいもの、ということだ。

その上で、それでも人間としても好きなあなたが幸せなら、私も嬉しいです、これでいいのだ。

 

「喜ばなければいけないこと」ではない。私達ファンは推しの家族でも友人でもないのだから。ファンとしては普通に不安や不快の感情を抱く要素の方が多いという人がいて当然なのだ。

それでも「人間として大好きな推し」に向けて私達は笑い、祝福の言葉を贈る。それがアイドルとファンの間にある“推し“という関係性の持つ歪みであり、同時に美しさではないだろうか。

 

 

2.私達は失恋をしたのか

 

 

3次元に生きる推しを「人間部分」「コンテンツ部分」に分類して考えたことで、私たちファンがおめでたい気持ちとは裏腹に感じてしまうネガティブな感情がごく自然に起こりうるものだと私は理解できた。

次は私たちファン側の好意について考えてみたいと思う。

 

推しの結婚が発生した時、私達ファンは世間から失恋した人として扱われがちだ。

 

普段オタ活のことを疑似恋愛と揶揄された時に私達は逆毛を立てて羽を広げ相手を威嚇し「そういうのじゃないんだよ」と否定をするが、今回の高城れにさんの結婚を経て、私はその考えを改めた部分がある。

私達ももクロのオタクは今回程度に個人差はあれど「失恋」をしたのかもしれない、という風に。

 

「みんなにとってのアイドルでいてほしい」という願望は本来、「たった一人の特別な関係である配偶者の存在」と矛盾しない。

ももいろクローバーZのファン、という括りをしてみても彼女達に対して所謂“ガチ恋“のスタンスをとっているファンは少ない。

ただ一方で私達は「アイドルが性的魅力を持つ」という側面を完全に排除することはできない。

ここで言う性的魅力とはエロやセクシーの類だけを指すのではなく、女性であれば「長い黒髪が綺麗だ」「歌声がかわいい」、男性であれば「腕の血管が素敵だ」「落ち着いた低い声が格好いい」といったその人が属する性別を踏まえて評価されやすい魅力全般を指す。

 

もちろんファンの中にはこれらが全く当てはまらない人もいるだろう。

人間性に惚れた」「頑張っている姿が格好いい」「生き様についていくと決めた」「親のような気持ち」だけでアイドルを推している人も宇宙には間違いなく存在する。

ただ、それでも私達はアイドルには異性のファンがつきやすいという前提を覆せたことがなく、オタクは恋愛対象と同一の性に推しを持ちやすい、という傾向を否定できない。

 

推しのことを、他の異性を見る時と同じ尺度で魅力的に感じその姿に見惚れているだけで、恋愛の要件(例えば実際にお近づきになりたいとか自分のことも好きになってほしいというような)を満たしていないから“ガチ恋“になっていないものの、それはもう恋愛の側面を持つのではないだろうか。

 

私達の推しへの好意は恋愛と同じ感情を含んでしまう。

ここで私は推しを持つオタク文化を愛するので誤解のないように言い直しておくが、

推しへの好意は疑似恋愛である、ではなく推しへの敬愛は恋愛を“包括する“のだと主張したい。

 

そうした時「推しの結婚」という出来事はやはりとんでもなく大きな衝撃だ。

今の日本の価値観で一般に「好きな人がする私以外との結婚」は「私の恋の終わり」と同義だ。

 

先に書いた通り、推しへの好意は恋愛感情を含む、ということを私達は無視できないと私は考える。その割合は人によって異なり、それを正確に自覚することも難しい。私の中の百田夏菜子さんへの恋愛感情は2%かもしれないし98%かもしれないし120%かもしれない。150%かもしれないな。

 

推しが結婚した時、何%かはわからないが私たちは無意識に部分的に持つ恋情に蓋をすることになる。そしてそれはまた部分的に失恋と同じ感情の起伏を生むと思うのだ。

 

推しに対して恋愛感情の一部を持っていることを自覚する。

そして、その日が来た時私たちは“部分的失恋“をする。

もし自分の中の不快感の割合が大きいと思ったその時は躊躇なく髪を切ったり酒を飲んだりポエムを書いたりしていいのだ、部分的には失恋なのだから。

 

 

3.推しが結婚する時に私ができること

 

ここまでで私は

推しという存在を人間部分とコンテンツ部分があること

推しへの好意には恋愛感情の一部が含まれること

を書いた。

そこから導き出される“推しの結婚に私たちができること“がみんなにもわかっただろう。

 

 

足を開け、丹田に力を込めろ、歯をくいしばれ。

 

 

土台無理なのだ。

推しは人間であり、私たちは生きるコンテンツを愛しているのだから。

私たちの応援には恋愛由来の好意(流行り)が含まれることを排除できないのだから。

 

特に結婚は祭囃子を奏でながら笑顔でやってくる。

悲しみづらく痛がりづらい華やかさがある。

ある意味でもっとも残酷かもしれない。

 

私たちはペットを飼いたがる娘に動物の寿命を言い聞かせるように、推しを愛する自身に言い聞かせるのだ。

推しが人間であるということを認めるのであれば、私たちは彼ら(彼女ら)が好きな時に恋愛し、好きな時に結婚し、好きな時に活動をやめるものだということを知っておかなければならないよ、と。

 

それでも最後まで「あなたという人間の人生をファンとして応援しています」と言えることが唯一、推しを持つ私たちの人生を美しくするのだと信じたい。

 

backnumberの沁みる季節がきた。

アイドルはショービズ(ももクロの新曲が良い)

ももいろクローバーZの新アルバム『祝典』に収録されている『ショービズ』が大変良い。歌詞を中心に、本当に全部良いので、とりあえず一番サビまで一時停止しながら感想を差し込んで残しておく。国語の読解の授業を思い出す。ももクロは音楽で社会で国語で道徳なので教科書に載せていこう。

 

♪〜

はいストップ、イントロが良い。

3秒でチル、5秒でエモ、10秒でスキだろこんなのは(ブログで伝わらない)

 

♪広げたmenu 全部頼んでエンターテイメント残さずに全て味わうhappy life

 

音楽も演技もバラエティもライブも全部を本気で平らげるアイドルビッグイーター、食わず嫌いの対義語集団ことももいろクローバーZのことを言い表していて大変良い。

 

 

♪ドア開ける度に切り替えていく どんな私もお望みのままに魅せる なんて器用なタイプじゃないよ本当は 承知の上でfollow? ついてきてくれたよね

 

器用なタイプじゃないよ本当は、と玉井さんに歌わせるのが憎い。

玉井詩織さんは器用さももちろん魅力なのだけど何より順応力みたいなものがずば抜けている。

オーラを自在に操る百田夏菜子、アイドルキャラの頂点あーりんを使いこなす佐々木彩夏、キテレツ聖母アイドル高城れにの3人と自然体のまま一緒にいることが一番異常なのだけどこれはまた別で話そう。

 

Tiktokあげたらなんか反応ちょうだい 後でって言わないで 時々泣き気味 give me baby

 

まさに高城さんらしい。高城さんインターネットを見てくれるのでオタクの我々は嬉しいし怯えている。

「時々泣き気味 give me baby 」は第二回ももクロ曲繰り返し聴きたい1フレーズグランプリにノミネートですおめでとうございます。

ちなみに第一回のグランプリは

「てかミッション笑門来福です」/マホロバケーション

です。

 

♪メンテナンス欠かせない 髪をなびかせてそれだって楽じゃない でもときめきたいvivaわがままな自分

 

「髪の毛先一本ずつにまで振りをつけて踊ることができる」と言われている(?)佐々木彩夏さんが髪をなびかせるのも楽じゃない、と歌っているのでグッときてしまう。私達は好きなアイドルをいつしか非日常の象徴にし、まるで天女のように扱うが、彼女達彼達は生身の人間なのだ。

トニースタークが自身の知恵と試行錯誤の末に生身の人間でありながらスーパーヒーロー達のリーダーとして世界を救ったのと一緒だ。  

私たちの大天使は佐々木彩夏という1人の実在する女性が基幹になっている。

 

♪ほら何から何まで足から頭まで君の笑顔でできてる

 

ももいろクローバーZというアイドルの実態として最も適切で、そして理想の解だ。

冒頭に歌われていたエンターテインメントの全てを平らげる彼女達のアイドル力の根拠を「君の笑顔」と歌われてしまったら尽きる、ファン冥利に。

 

♪汗と涙まみれたあの日の気持ちが今、今日を支えている

 

ももクロは昔からトップアイドルだったわけではない。最近の彼女達のスター感を見ているとつい忘れてしまいそうになるけど。

美しく健康的な大人の女性アイドル4人組である彼女達の根底には

「顔とかじゃないし歌も上手くないけど部活みたいな全力感がいいんだよ」

などと言われていた10年前の精神が残っている。

 

♪足りない自分 もどかしい気分 それも含め成長の轍 後悔期待 迷いと願い 全部まとめて繋ぐ自分へ

 

彼女達の紆余曲折は全て未来へ繋げていく。過去の波瀾万丈も含めてエンターテインメント、残さずに全て味わい、血肉にしていく。本人達もファンも、そんな楽しみ方ができるアイドルなんだ、ももいろクローバーZは。

成長の轍って言葉がめちゃくちゃ素敵なので説教の時に多用してキモ上司になってしまうかもしれない。

 

新アルバム『祝典』のリリースにはまだ2日あるが、少なくともこのショービズは彼女達ももいろクローバーZに向けての祝辞だ。

アラサーアイドルと呼ばれるようになったトップアイドルのこれまでとこれからに最高の賛辞を(MVの百田夏菜子さんのカメラ目線かっわ〜〜っ)

 

ももいろクローバーZのニューアルバム『祝典』は2022年5月17日発売だ全人類で聴こう。

https://mcz-release.com/sound/shukuten/

 

 

先週末ももクロの百田夏菜子と話してきた

 

 

ももいろクローバーZ百田夏菜子さんがソロコンサートをやるというのでさいたまスーパーアリーナに行ってきた。

昨今の感染症情勢や個人的な事情が重なり推しを摂取する時間をほとんど持てずに生活していた私はすっかりオタクの筋肉を失っていたが、この日さいたま新都心駅に降り立った私はバキバキにいきり立ったマッスルフォーム。推しのソロコンサートはステロイドである。

  

ソロコンサートはやらない、と思われていた百田夏菜子さんがついに開催してくれた単独のライブ。

Talk With Me 〜Cinderella time~』と題のついた、二度と見ることができない(と私は思っている)アイドルライブを書き残しておく。

「ソロコンサートはやらない」と思われていた百田夏菜子のソロコンサートは果たして良いものに仕上がったのかめちゃくちゃ良かった最高。 

 

 ① 百田夏菜子にとってのTalk with me
 

Talk  with me』というタイトルが良いよなぁ………ライブ当日から2日経った私は再読したパンフレットを両腕で抱え当日を思い出しながらぼやく。

 

ももいろクローバーZのリーダー、百田夏菜子とはどんな人なのか。どんなアイドルなのか。

世間の多くの人の持つイメージはせいぜい、天真爛漫で明るくてテンションが高く、かわいいや美しさや強さや優しさや格好良さを早送りした四季のように私たちに見せて心を明るく照らしてくれる人類史初の太陽、と言ったところだろう。しかし今回、百田夏菜子さんが見せてくれた『百田夏菜子』はそれだけではなかった。

 

百田夏菜子さんという方は、内向的な側面を持ち自己対話で答えを出す人だ。

今回のソロコンサートの1曲目『魂のたべもの』を観たことでそれを感じた、再認識したファンは多いと思う。

この曲で歌われるのはまさに自身の内側への問いかけだ。自分の魂にとって必要なものを「たべもの」と置いて、何で満たされることが幸せなのか、と問いかける。

ちなみに鬼束ちひろあたりのカバーではない、ももいろクローバーZの持ち曲だ。

Talk with me』一曲目で、この曲を、自分と同じような白い衣装に身を包んだパフォーマーと向かい合ったり横に並んだりしながら歌う。

 

百田夏菜子さんは今回のライブ『Talk with Me』を自分自身が行うことから始めたのだ。

そうだとすると、この一曲目はとても百田さんらしい解である。

「セルフプロデュースが苦手」とパンフレットのインタビューでも口にしていた百田さんの、「ソロコンサートという舞台で何をしたいか、どんな自分を見せたいかわからない」という迷いや葛藤がそのまま「自己対話」に繋がり、今回のライブコンセプトに沿ったこの上ない選曲に繋がっている。

 

百田さん自身はそんなことまで考えていないかもしれない。彼女はさんざん入らなかったフリースローを突然後ろ向きで決めてしまう人なので。

どちらにせよ私はライブが始まっていきなり百田夏菜子の内面を覗けてしまうような演出にドキッとさせられてしまった。

Talk with meは「百田夏菜子会議」からスタートした。

 

 

百田夏菜子は語るように歌う

 

頼りない表情から覚悟の顔へ、笑顔から鋭い眼差しへ、嘘のように一瞬で変わる彼女の表情の豊かさには今回も心を揺らされてしまった。私などは百田さんのあの万華鏡のような表現の中毒なのだと思う。

そしてその表情に加え、今回のソロコンサートの百田さんの歌にはセリフのような歌い回しが特に多かった。

これもコンセプトを意識した表現なのかどうかはわからないが確かにそうだったように思う。

ももクロの名曲バラード『キミノアト』に始まり、自身の作詞曲『それぞれのミライ』、戸田恵子さんの『強がり』などは随所に語るような歌い口が見られ、『The Show』の最後のフレーズ「人生というShow、楽しみましょう」なども、完全に語りを含んだ歌唱だった。

 

それにしても「人生はShow」だと歌うThe ShowはももいろクローバーZという、自分達の軌跡を表現にし続けてきたアイドルが歌うことで何倍も深く刺さるよな(追加の缶ビールを開ける)

 

百田さんは昔からこの語るような歌唱表現を持っていた。彼女がグループで歌う落ちサビが刺さるのは彼女の歌が「彼女の言葉」として聞こえるからだ。

それがより刺さるようになり「コンセプトに合わせた表現」というテクニックとして確立できているのは歌唱力だけでなく、彼女が積み重ねてきた多くの現場での演技経験の賜物だろう。

『夢の浮世に咲いてみな』の「少女は扉を開けた」のところで彼女の表情が切り替わる瞬間で会場にいたオーディエンス78億人(まだ見ていない人を含む)の鳥肌を立たせ、

リバイバル』でダンサーとのダンスパートを最高にクールにこなして格好良いアイドルを散々に見せつけた後にMCを挟んで歌う『強がり』への陽陰の移り変わりには驚いてしまった。

 

『強がり』で歌われる「私は本当はこんな強い人間ではない」という歌詞だけでなく、『タキシードミラージュ』での恋愛的表現すら「もしかしたら本当の百田夏菜子の言葉かも」と思わせる力が彼女にはもう、ある。

それだけ彼女の発する言葉は力を持ち、重い。私がライブの感想をつらつらと数千字書き並べたものなど一言で吹き飛ばすほどのウェイトだ。これがボクシングならあり得ねえ。

今回のライブコンセプトでは、そんな百田さんの「言葉」の強さが自然な表現として私たちの心を揺らした。

 

もちろん、彼女自身の言葉のようにしっかりと意味が乗っかっている彼女の歌は「本当にそうかもしれない」を含むわけだけど、それはまた別の拗らせ方をした人達が楽しむ(?)ための余白だ。

 

 

百田夏菜子、シンデレラだった。
 

 

百田さんは今回、自身が作詞した新曲「ひかり」を歌ってくれた。

彼女が地元の静岡と東京を往復して芸能活動をしていた頃、地元を離れ「茶畑のシンデレラ」としてアイドル活動をするためだけに東京にいる時間から、今回のソロコンサートの副題である『シンデレラタイム』が付けられていて、

『ひかり』の中に掛詞で何度も登場する新幹線は、地元から東京に通う彼女にとってはガラスの靴だったわけだ。

 

ちなみに本家のシンデレラはガラスの靴を脱げたまま家に帰るが、百田さんは終電の新幹線で寝過ごすというガラスの靴の脱ぎ忘れエピソードを持っていて実に良い対比だ。

 

そして「ひかり」を新幹線に当て字し、ガラスの靴の隠喩とすると

『赤い幻夜』から恋愛を歌う『タキシード・ミラージュ』へ、そして『ガラスの靴』を脱いで『白金の夜明け』を迎える、と言うピアノパートの曲順がシンデレラのストーリーを綺麗になぞっていて唸ってしまう。演出に加わっている踊る大捜査線の監督の仕業だろうか。

 

そんな本編最後の『白金の夜明け』は聴くたびに良いと言っている気がしたので省こうかと思ったのだけど、ピアノの不協和音で不安感を与えてから始まる演出が曲に合い過ぎていて嫌になってしまった。好きな方の嫌、だ。

百田夏菜子は、ももいろクローバーZは多くの不協和音を乗り越えて今、4人の歌を歌っている。

 

「悲しいことなど何もない」と言うように元気をくれたあの頃も彼女達は私達大人を熱狂させたが、「悲しいじゃ済まされないことだらけ」の世界で変わらず元気をくれる今のももいろクローバーZが心の支えになっている人は沢山いるはずだ。

いまだに十代が旬とされることの多い女性アイドル界で「いくつもの荒波を超えて大人になったから刺さるアイドルエンタメ」でシーンの先頭を走っているアイドルが他に何組いるだろうか。

そのグループのリーダーが百田夏菜子だ。

私は「ももクロの曲はももクロ全員で歌ったほうが良い」派の人間なのだけど、この日の百田さんの『白金の夜明け』は前述したそんな感情をとてもリアルに思い出させてくれる特別な良さがあった。そしてその後に残るのは「どうかずっと幸せでいてくれ」である。

私はこの話を何回もしているしこの先もしてしまうと思う。

 

どうかずっと幸せでいてくれ。

 

アンコールのイマジネーションでバンマスの宗本康兵氏とピアノを連弾していたのがあまりに無邪気にかわいいものだからオタクの友人が「会社で私の隣でエンターキー押して欲しい」と呟いていたことや、最後の曲『渚のラララ』で百田さんを筆頭にバンドメンバーが楽器隊列を作っていたところは国民的海鮮一家の有名エンディングを彷彿とさせて胸が暖かくなった話はいつか飲みながら聞いてほしい。

 

そしてオープニングで時計の針の音から始まった百田夏菜子のシンデレラタイムは、最後も時計の音が鳴り響く中で彼女がステージを降り、終了した。

 

 

百田夏菜子さんは、ファンとして追いかけていると太陽のような明るさの中に冬の夕焼けのような寂しさが見え隠れする人なので、彼女がアイドルとして普段見せない人間的な葛藤についての表現には時折胸をキュッと締め付けられた。

実際「ももいろクローバーZ百田夏菜子でした」と少し戯けたような照れたような最後の挨拶にとても安心感を覚えた私がいた。

 

それでも百田さんはパンフレットで語っていたように「どうしたら喜んでもらえるか」と言う問いの先に今回のソロコンサートを開催してくれている。

明るくて可愛くて強くて少し切なくて、嘘みたいに優しい最高のヒロインなのだ、百田夏菜子さんは。

彼女が見せてくれる木漏れ日のような優しさも直射日光のような眩しさも、寂しさを冬の夕焼けも、私は百田夏菜子という最高のアイドルと過ごすシンデレラタイムとして享受していきたい。

 

ももクロのライブに行くとこんなヒロインが後3人も登場するのどうかしてるよな。

ちなみに百田夏菜子と話してきたと言うのは嘘だ。

私は終演後しばらく経つまで全ての語彙が死んでいたので。

 

 

 

ももクロファン、モノクロデッサンの何がそんなに刺さってるの?

 

 

5/17(月・ももいろクローバーZさん結成13周年おめでとう)にデジタルリリースされた『ZZ's Ⅱ』、中でも最後に収録されている『モノクロデッサン』が最高だったので聞いてくれ。

 

 

モノクロデッサンは2016年にリリースされたももいろクローバーZの3rdアルバム『AMARANTHUS』に収録されている楽曲。

この曲はタイトルを聞いてわかる通り「モノクロでデッサンしたキャンバスに自分が出会った色を落として夢を描く」という歌だ。

 

色にまつわる曲であるため当然、歌い手であるももいろクローバーZの各メンバーの担当カラーに宛てられた歌詞が登場する。

 

そしてサビで歌われる

「どの色が欠けてもこの夢の続きは描けないから」

という詞がとても印象的だ。

これを聞いた時、かつての私達はももいろクローバーZの5人の絆と輝かしい未来に想いを馳せ酒を酌み交わし朝まで踊り明かしたものである。

 

この曲が再録されたことの話題性もファン達の感動もそこに尽きるのだ。

2018年1月に、我らがももいろクローバーZからはメンバーの有安杏果さんが卒業している。

 

その際、現行メンバーの4人は今まで5人で歌い分けていた歌詞からパートの振り直しをした。

そしてこの曲モノクロデッサン。彼女達のメンバーカラーに宛てて書かれた歌詞は赤・黄・ピンク・紫・緑の5色について歌うわけで……そう、難しいのだ。

卒業メンバーの担当カラーについて毎回歌う歌は鉛のように重い。ファンであればあるほど、本来のメッセージや詞の豊かさに辿り着く前に肩が凝って整体に行くことになる。

 

そんな私達の肩凝りを解決すべく(?)、この曲の作詞作曲をしてくれたC&KのCLIEVY先生が4人verの歌詞を書き下ろしてくださり今回のZZ'sⅡへの再録盤が出来上がったのだ。

 

C&Kが詞曲の提供してくれてるのがすごいしCLIEVY先生はあの『クローバーとダイヤモンド』を書いてくれてるのでももクロのファンはみんな頭が上がらない。私も今三点倒立しながらこの記事を書いている。

 

あの有名な『クローバーとダイヤモンド』はこちら

https://youtu.be/ESGu10M49Zo

 

そのCLIEVY先生の新しい歌詞で、今の彼女達に宛てられたメッセージとして歌われている新録モノクロデッサンを聴いた。

 

各メンバーカラーに宛てられた歌詞は百田さん、玉井さん、あーりんさん、高城さんの4人向けのものに書き換えられている。

 

そして私達がかつて5人のももクロに重ねて胸を熱くした前述の歌詞

「どの色が欠けてもこの夢の続きは描けないから」

この詞は新録版では

「どの色が欠けてもこの夢の続き描けてないから」

と歌われていた。

 

私「あーーーーCLIEVY先生なんと綺麗な日本語回しだーーーありがとうございます」

 

「どの色が欠けてもこの夢の続きは描けない」

5人当時に書かれたこの詞は

「5人の誰がいなくなってもいけない、この5人だからももいろクローバーZなのだ」

という意味を持っていた。少なくとも私達ファンの中では。

 

そして有安さんがグループを卒業したことで、私達はこの詞から最初に解釈したメッセージが破綻してしまったように感じてしまっていたわけだ。

でも実際は違う。

「どの色が欠けてもこの夢の続きは描けてない」

わざわざ歌い直してくれたこの詞は

グループから欠ける、という活動人数スケールの話ではなく、

「有安さんがいたことも、早見さんがいたことも、今に辿り着くのに必要なことだった。かつて彼女達がいたから今がある」

と伝えてくれてるのだ。

 

「僕らは人生(パレット)の上で色んな色と出会いながら 真っ白な人生(パレット)を埋め尽くしてく」

 

これもサビの歌詞。

(誤解されていたらめちゃくちゃ恥ずかしいので一応書くけど「人生(パレット)」は私の解釈ではなくオフィシャルの振り仮名。作詞家以外でこの括弧つけてる人がいたら距離をとりましょうポエマーです)

 

有安さんや早見さんが自身のアイドル生命を全うしてくれたから今がある。彼女達との出会いも、共にした歩みも、別れや、その悲しさも、全てが出会った色として、真っ白なパレットを埋め尽くしていく。全てがあって今があるわけだ。

 

そんなことはファン達も今の彼女達ももいろクローバーZを見ていればわかっていたことだ。

彼女達の今があるのは間違いなく早見さんがいたからであり、いないからであり、有安さんがいたからであり、いないからである。

わかっていたはず、それでも、それをちゃんと歌ってくれたことが嬉しいのだ。

これは他のももクロ楽曲にも共通するのだけど、彼女達の歌には、「ファンの彼女達への願いや想い」が歌われているものが数多くあり、ももクロファンはそんな曲やメッセージに出会った時に心が救われるような体験をする。

 

だから私達はこの新しいモノクロデッサンを聴いて歌うし踊るし泣くし笑うし早くライブで演ってほしいし玉井詩織さんに体調不良と不安と不自由を与えたコロナを許さない。

 

あと私が個人的にこの曲の詞で"粋"だと思うのが、人生と書いて「キャンバス」ではなく「パレット」と読んでいるところなのだけど伝わるだろうか。

 

「人生はキャンバス、自分なりの色に染めていくものだよ」

くらいの詞だったらルノアール情報商材を勧める人の口から聞くことがありそうなものだけど、

「人生はパレット、出会った色がそこに落ちていくからその色を使って夢を描くんだ」

と歌うのがめちゃくちゃにオシャレだ。

直接歌われてこそないけど、キャンバスには「未来」が当て書きされているのだ。

 

そして、出会った色が蓄積された人生(パレット)からモノクロデッサンされた未来(キャンバス)にどんな夢を描くのかが、あくまで『自分次第』だからこそ「どの色が欠けてもこの夢の続きは描けてない」という詞に「私達の進む道に、あなた達はあの頃も今も欠かせない存在だ」という意味が強く、真っ直ぐ通じるのだ。

 

そしてこの歌は私達ファンの人生にも同じメッセージをくれている。

 

2度と見られない5人時代や6人時代(エア古参)の思い出も、私達のパレットに欠かせない色として残るのだ。そもそもライブなんて全てが2度と見られない思い出だ。私達はその全部をパレットに落としていくのだ。

 

緑を歌わなくなったこの曲を聴いた時の、片付いた部屋を眺めた時のような寂しさも、私はパレットに落として生きていく。

そしてキャンバスに歪なアウトプットをし続けるのだ。

 

 

それでは聴いてください

ももいろクローバーZ

『モノクロデッサン ZZver』

https://youtu.be/zeyTKRWbPFI

 

 

 

後半ポエマーになってるな……

 

 

はじめてももクロのライブに行った時の話

 

 

今日は私の推しアイドル、銀河一かわいいちゃんズことももいろクローバーZとの出会いについて書いておこうと思う。意味ありげに副題をつけて書くけれどただのオタクの思い出だ。親愛なる推しアイドルグループの結成13周年記念に寄せて。

 

こういう具体的なエピソードなどを書くと「匿名で好き勝手に書く」をモットーとしているこのブログ主が私の友人達にバレてしまうかもしれない。数少ない友人の皆様におかれましてはできれば気付かないふりをしていてほしい。

 

遡ること2012年11月。私がまだ、当時お付き合いしていた方から別れ際に突然「北斗今まで言わなかったあなたの嫌いなところ百烈拳」を放たれて五体を飛散させる前の話。

 

1.招待 ー今きているらしいアイドルー

 

「11月5日休みやろ?ライブ行こうや」

仕事終わり、仲の良い会社の先輩から誘いを受けたのは開催日の2週間ほど前だっただろうか。

一緒に行くはずだったもう1人の先輩が来られなくなりチケットが余ってしまったとのこと。

「誰のですか」

ももクロやん」

「あーなんか今チケット取りづらいっていう」

「せやで、武道館ライブやで」

コンサートなど行ったことのなかった私だったが、チケットが取れないアイドルのライブというコンテンツになんとなく興味を持ち、また休日の遊び方の選択肢の一つとして誘いを受けた。

先輩は「予習やで」といって、彼女達ももクロなるもののライブDVDを貸してくれた。

うわDVDまで買ってるなんて、先輩結構ハマってるんだなぁと少し驚きながらDVDを借り、家で見ることにした。

「極楽門」とデカ字で書かれたパッケージは私の想像するライブDVDのものとは違ったが、さらに驚いたのは再生ボタンを押したあとだ。

オープニングから正味20分の時間がヒーローショー風の茶番だった。全然ライブが始まらない。

「上級者向きだろ……」とぼやき集中力を切らしながらもその後の彼女達のコンサートを観終えた。

 

茶番で挫けるかと思ったし曲を一曲も知らないアイドルのライブなんてと思ったが意外と観れるものだなぁ、が感想だった。

DVD観ましたよ〜と伝えると先輩は「誰が一番良かった?」とマイケルジャクソンのように前のめりで聞いてきたがそんなものは勿論決まっていないしまだメンバーの顔と名前も一致してない。「強いて言うなら黄色の子ですかね〜」と、なんとなく雰囲気の好きだった子を答え「あ〜なるほど(?)、俺もしおりんやで、その子はやな…」と先輩が話し始めた彼女の話は聞き流していた。

 

2.物販ー デビュー戦で大漁旗を買うなペンライトを買え ー

 

ライブ当日。先輩と私は朝イチに日本武道館の最寄り、九段下駅に集合した。

「ライブは夕方からやけど近くに美味しいパン屋があるから朝食を食べていくやで」と言われたが今思えば完全に物販のための早起きだ。

当時の物販列は3.4時間待ち当たり前、待った末に欲しいグッズが買えないこともざらだったな、と突然の回顧ノスタルジー

パンを食べ終えた先輩と私は日本武道館にトグロを巻く物販列に並んだ。借りたDVDはその後一度も見返していなかったが、せめてメンバーの顔と名前は一致しないと失礼ですよねぇと検索して名前を覚えるなどしながら長蛇をゆっくり進んだ。

 

大体3.4時間並んでようやく物販列大蛇の出口。

「せっかくだから自分も記念に何か買いや」と先輩に勧められた。先輩に付き合って並んだものの何も買おうと思っていなかった。

しかし、せっかく3時間も並んだしなぁ、という変な購買意欲の引き金を引いてしまい「では一番お土産っぽいものを」という理由で大漁旗を購入した。

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後で改めて書くが、初めてのももクロライブでグッズを買おうと思ったらまずペンライトの購入・持参がお勧めだ。大漁旗は使わないしデカい。

 

3.直前 ーメガネ兄さんとの一期一会 ー

 

物販を終えた私達は少しカフェで時間を潰した後、開場時間が来てすぐに入場した。

物販に並んでいる時に初めてちゃんと聞いたのだが、今回のライブは「男祭り」という男性限定ライブなのだとか。「先月は同じ武道館で女祭りをやったんやで」と教えてもらった。

当然のことだが、その頃の私はまだ彼女達ももいろクローバーZが、数多のバンドやアイドルが目指すライブ会場のメッカ日本武道館での初単独ライブを「女性限定」という企画ライブでさらっと埋めた異常さには気付いていなかった。

 

席に着いた後の時間をどう過ごしていいかわからずにそわそわしていると、先輩と反対側の隣席にいた兄さんが声をかけてきた。

細身ネルシャツでメガネをかけた、割と私の想像するオタク像に近い兄さんで逆に安心感がある。

物腰の柔らかいそのメガネ兄さんはよかったらどうぞ、と私達にのど飴をくれた。優しいファンの方である。

 

4.開演 ー爆発のステージと龍になった兄さんー

 

兄さんはいつの間にか真っ黒な法被姿になっていた。そして枯れ方と声量の釣り合わないデカボイスで「ヴリャァ!ヴリャァ!」と体をのけぞらせながら今にも口から火線を出す勢いで荒れ狂っていた。

 

兄さんがドラゴラムしたのは開演直後だ。

ももいろクローバーZの登場曲(と紹介して相違ないはず)こと、『Overture』である。

 

オープニングの演出もほどほどに、この曲が流れてから観客席の人々は変貌した。

今思えばライブなんてものには様々な楽しみ方があり、ノリ方も人それぞれであるのだが、その時の私は豹変したメガネ兄さんのバイブスがこの会場中の全員に充満しているものとしか思えなかった。

それだけovertureがかかった時のメガネ兄さんをはじめとした会場の盛り上がりはすさまじく、私は圧倒されてしまった。

 

メガネ兄さん(第二形態)が人だった時に渡してくれたのど飴も、元の姿に戻った時に人間の言葉を失わないための魔法石だったのだ。あの様子では多分効かないと思うけれど。

 

5.正体 ー中心にいた5人の少女ー

 

誰のライブだとか曲がどうだとかメンバーがどうだとか、そんな話の前に会場の熱量に顔面を殴られてクラクラしていた私も、オープニングが終わりついに曲が始まるという静寂で意識を取り戻した。

現れたのは5人の少女。ももいろクローバーZ…そうだ、私は先輩に誘われたももクロのライブに来ていたのだった。

 

現れたももいろクローバーZ達は今でも彼女達のライブ定番曲である名曲『全力少女』からライブをスタートした。もちろん当時の私は曲名もその価値も何も知らないので、再び燃え上がった客席の熱量の波にただただ呑まれていった。

 

そして私は波状の熱狂に何曲も揉まれる中で、会場で自分だけが棒立ちでライブを観ていることにそわそわしてきた。そして

「私もその光る棒を振りたい…振らなきゃ…」

と思い始めた。もう乗るしかない、このビッグウェーブに。

しかし私はペンライトを持っていない。大漁旗だけ買うなんて変なグッズデビューするからだ。ペンライトを買え。

 

握ったこともないペンライトが手元にないことによる強烈な手持ち無沙汰についに堪えられなくなった私はついに、鞄の中からポカリスエットの500mlペットボトルを取り出した。

そして振った。周りの男達を真似ながら、段々と彼女達の曲の楽しさに揺れながら、いつしか一心不乱に。ペットボトルを。

 

曲調や歌詞と曲名が一切一致していない私も、今思えば黄色の子は手足が長くて綺麗だなぁと思った曲は『気分はsuper girl』だったし、サビになるとメンバーを含めた会場全体が前後に体を傾けて踊る光景に驚いたのは『ChaiMaxx 』だった。当時はもちろん一つも理解できていないけれど。

 

何もわからずわけもわからないまま、私はももいろクローバーZのライブに溶けていった。

 

そしてライブが進む中で、私は段々と、この空間で1万人を沸騰させる熱の発生源となっている5人の少女に釘付けになっていく。

1万人の男達の声援に負けることなく元気一杯に歌って踊る彼女達の快活さに目を奪われたのか、アイドルがライブ中に新日のプロレスラーと戦ってるのが面白かったのか、そんな目の前の非日常を生み出してる彼女達が何者なのか知りたくなったのか、理由はわからない、その全部かもしれない。

 

初めての体験だらけで情報処理が周回遅れしてる私だったが、終演までにはとっくにこのライブ、そして彼女達ももいろクローバーZに夢中になっていた。

先輩に煽られてとはいえ、アンコールまで真面目に叫んでしまったのだから言い訳できない。

 

振り続けたペットボトルの中身はとっくに空だった。

 

6.終演ー放心と乾杯と検索ー

 

「よかったやろ」

「楽しかったです…何が楽しかったとかは全然うまく言えないんですけど…」

 

先輩と私は居酒屋で感想戦をしていた。

もちろん感想戦なんて呼び方は知らないのだけど。

 

1杯目のビールを飲み終えても私はまだポヤポヤしていた。

「良かった曲の一曲も言えないんですけど、また行きたいです…」

「またいこうや、ライブのチケットが取りづらいからな、ファンクラブ入った方がええで」

と、ファンクラブに誘われたあたりで私は我に返った。

 

一回行ったライブが楽しかったからって、有料のファンクラブにまで入るか?入るか?普通入らないよな…

 

「ちょっとまだその、いきなりファンクラブは早いと思うんですよ、流石に。彼女達のこと何も知らないし」

と、惚れた側のくせして突然の告白に戸惑うような言い訳をする私。誰かのファンクラブなんて入ったことがなかったのだ、許してあげてほしい。

 

「今日はまだ初めての体験に興奮してしまってるので冷静じゃないと思うんです。そうだな、えっと、1ヶ月。1ヶ月後もまだ好きだったら入りますよ、出会った日に突然ファンクラブはね、早いので」

 

私はその後、自分で決めた1ヶ月の経過を毎日待ち侘び、結局我慢できずに2週間後、先輩に内緒でファンクラブに入会した。あと借りたDVDは狂ったように見返した。

 

7.現在 ー最新の推しが最高の推しなのでー

 

ライブパフォーマンスでぶん殴られてファンになった私だが、その後は彼女達の多面的なアイドル性に転がるようにハマっていった。

空き時間にはYouTubeで彼女達を検索し、映像化された過去のライブは全て履修した。

 

そして知れば知るほど彼女達はアイドルという生き方に青春を、人生をかけ、全力で走り続けるエンタメアスリートだった。

 

私はハマったばかりなのにその年の彼女達の紅白歌合戦初出場を涙ぐんで喜んだし、

初めて百田夏菜子さんのエビ反りジャンプを間近で観た時は彼女のストイックさの結晶のようなパフォーマンスに涙が止まらなくなってしまった。

 

女性アーティスト単独初の国立競技場コンサートは嬉し涙を滲ませ続けながら観た。

「隣の人と手を繋いでください」と彼女達に促されて手を繋いだおじさんが恋人繋ぎをしてきてギョッとしたことも含めて今も忘れられない。

 

彼女達が紅白歌合戦に落選したことをきいて、その後百田夏菜子さんのブログを読んで「彼女達が報われない世界なんてあっていいものか」と歯を食いしばって泣いた。

 

彼女達の初アメリカツアーを観に行くのに生まれて初めてパスポートを取った。言語も違う遥か海の向こうで自分の推しを愛してくれている人々の喜ぶ顔に嬉し泣きするばかりだった。

 

ROCK IN JAPAN FESTIVALの最大ステージであるGRASS STAGEに集まった数万人のフェス観客をライブで圧倒した瞬間は、彼女達ももクロがひたむきにやってきたことは何も間違ってなかったのだと確信した。それが嬉しくて誇らしくて泣きながら客席を後にした。

 

メンバーの1人、有安杏果さんが卒業してしまった時は身体の一部が突然切り取られたようで生きた心地がしなかった。夜は眠れず食事は喉を通らなかった。

しかしその後、4人で迎えた東京ドームでの10周年ライブは私の生涯の宝物だ。

百田さん、玉井さん、あーりんさん、高城さんがグループを続けてくれて本当によかった、ありがとう。

有安さん、沢山アイドルしてくれてありがとう。

 

2021年。泣かされてばかりの私は今も、彼女達ももいろクローバーZのオタクだ。ももクロは最新のももクロが一番良いからだ。

 

ここまで長話に付き合ってくれた時間に余裕のある人は私の推しの最新MVを見てから帰ってくれ。

 

PLAY! /ももいろクローバーZ

https://youtu.be/40zYdYskPf4

 

ももクロは格好良くて、かわいくて、楽しい。

人生に推しを。週末にももクロを。

 

玉井さん早く体調良くなってくださいね。

あと私は推しを紹介するブログに謎グッズ大漁旗の写真しか使ってないの下手くそすぎるだろ。

 

 

 

私たちはずっと魔女見習いでいい

推しの百田夏菜子さんが声優をやるというので、映画『魔女見習いを探して』を観た。

私の推しはももいろクローバーZのリーダー百田夏菜子さんだ。いい声優でもあるのでぜひチェックしてほしい。

 

私はおジャ魔女どれみを"通って"いない。

メインキャラクターのビジュアルと、名前を言われれば、まぁおおよそどの子のことかわかる、というレベルの認知。

なので、おジャ魔女を愛してきた人々だけが味わえるノスタルジーや感動を100%味わうことはできなかっただろう。

それでも本当に良かったのでこんな感想文までしたためてしまった。

観ようか悩んでいる人は読んで、観てほしい。

あとももクロオタクは百田さんの可愛すぎる方言が聴けるので、以下の文章を読むまでもなく耳かっぽじって劇場へ行ってくれ。

 

 

 

 

以下、ネタバレを多分に含みます。

本編を観る意欲が削がれないように書くけど何にも責任は持てないので悪しからず。

 

 

 

 

 

この物語は幼少期をおジャ魔女に魅せられた3人の女性が、おジャ魔女を通じて出会い、旅と酒を通じてそれぞれの人生に影響を与え合うオタク旅ドラマだ。

 

旅と酒。ふざけているのではなく本当に、旅と酒。旅をする3人がそれはもうめちゃくちゃ飲酒する。

しかしこれはよくできていて、作中での度重なる飲酒の登場(そんな言葉はない)は、この物語の主人公が『あの頃の彼女達』ではなく『大人になった今の彼女達』であることを否が応でも私達に飲み込ませる。

おジャ魔女本編を観なくてもわかるのだけど、昼間の新幹線で「今日は自分を甘やかそ〜」と言いながら缶ビールを開ける大人はおジャ魔女の世界には絶対に登場しない。

 

おジャ魔女の聖地(?)で偶然出会った3人は、

エリート商社で差別的な扱いを受け仕事が思うようにいかないだとか、

教員になるつもりで進学したけど心が折れ自分の気持ちに揺れていたりだとか、

働かないバンドマンを彼氏にしてしまい将来が見えていないだとか、

それぞれがファンタジーの世界には一つも存在しない大人の悩みを抱えている。

ちなみに私の推しの声は働かないバンドマンに惚れていた。考え直してくれ。

 

そんな冒頭から始まるこの映画の何が良くて信頼できたかというと、これら3人が抱えたいくつかの悩みを全部真っ向から克服してハッピーエンドにしたりしないところ。もうこれに尽きる。

会いたい人との再会が希望通りに運ばなかったり、自分のモチベーションを省みたり、そもそもやりたい事を考え直してみたり、問題解決の結末も現実的で大人。

 

「初対面背負い投げ」や「辞表茶」といったアニメならではの解決策(?)も登場する。美味しそうなお酒が沢山出てくるけど私は辞表茶が一番好き(本編を見てくれ)。

様々な作品で見受けられる『全体的には好きな作品なのに主人公達のポジティブハラスメントでなーんか萎えちゃう症候群』を持つ人にもおすすめ。

 

 

そしてちなみに

「推しの聖地で出会って偶々仲良くなって聖地巡り、そんなことあるわけないでしょ」

と思ってるあなたは健全。明日のラッキーアイテムは1000万円。

 

でも実はそんなことめちゃくちゃあります。

オタクには偶然出会った同種のオタクに対し常人には聞こえない速度の早口で交信を行い、仲間だと認識するとあっという間に群れを作る性質を持つ種が確かに実在します(早口)。

 

オタクはもう3人の出会いから頷きながら見ていたよ。

しかもその後に新幹線で偶然知り合うおジャ魔女オタクの大学生男子との一旅の恋騒動では

「すぐに距離感が縮まる人見知りゼロオタク、SNSやばいがち」というオタクあるあるまで見事に再現されている。

 

思い出、という綺麗なものを扱うだけでなく、ちゃんと大人になってもコンテンツを愛するオタクを描いているから安心感があるんだこの映画は。

 

そして物語終盤。

彼女達3人は、時にお互いの時におジャ魔女を信じるチカラを借りながら自分の生き方を見つめ直していく中で

「誰もが魔法を持っている」

という気付きを得る。

 

絵が上手く書けること、はそうでない人にとっては魔法であり、思いやりを持っていることはそうでない人にとってまた魔法である。という気付き。

これは本編のおジャ魔女どれみで同じ事を言われても大人には刺さりづらい道理だったと振り返って思う。

年齢も住まいも環境もまるで違う3人の女性を引き合わせた只のアニメコンテンツの存在が、大人になった彼女達の手にはなかったはずの魔法の存在に説得力を与えている。

 

幼少期に夢をくれた大好きな物語とキャラクター達が大人になった自分達に再び、思いもよらない出会いやチカラをくれる。

そんな救いが彼女達が生きる大人の現実の中に描かれているからこそ、魔法という綺麗すぎる言葉がスッと胸に入ってくる。

 

 

そして全編を観終えて思う。

この物語に救われるのはおジャ魔女ファンだけではない。

 

この物語は幼い頃に憧れ、恋焦がれ、けれどいつしか現実に染まった私達が押し入れの奥底にしまいこんでいた全てのファンタジーの存在を現実的に肯定してくれているのだ。

 

例えば私は偶々出演者である百田さん及びももいろクローバーZのオタクだ。そして私は推しのアイドルにファンタジーを見ている。

私にとって百田さんはディズニープリンセスであり、少年漫画の主人公だ。シンデレラでありモンキーDルフィなのだ。

 

私は今でも幼少期に魅入ったファンタジーの実在を自分達の推しに写し、信じてやまない。

それは大人である私の原動力、支えになっている。明日の朝、目を覚ます理由をくれている。

そんな信奉と依存を持つ人が、暮らしに推しを携えて生きている人々の中に私調べで5000万人はいる。

 

あの頃私達の胸を躍らせ目頭を熱くさせた八百万のファンタジーは、今でも私達のモチベーションになり、力になり、指針になっている。

そんな構造を全面的に肯定してくれる優しくて綺麗な物語なのだ。

 

そうこれは幼少期に見たファンタジーに自分の好きのルーツを持つ全ての大人が観るべきオタクロードムービーだ。

 

あとオタク関係なく、旅行して酒飲みたくなる映画です、おすすめ。

 

 

※この記事はオタクの早口感想を文字起こしするという魔法を使って書きました。